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メビウスの世界線(試し読み版)

by 三世留男

※本作はエピソード6です。各エピソードは出版順に4、1、2、5、3、6とお読みいただけると、より一層お楽しみいただけると思います。

 一.

 1

 リック・タテカワ(四十六歳、刑事)は戸惑っていた。天を見上げるも、そこにあるのはのっぺりした青空に不自然に貼り付いた雲であった。

 白亜のホテル前で突っ立っているリックの後ろを、有閑マダムたちが颯爽と通り過ぎる。風にのって粉くさい化粧の匂いが漂ってくる。

 リックは手にした一枚の紙を見る。その紙には虹色に輝くひし形のホログラムが印刷されていた。すぐにホログラムは消え、代わりに紙の上に立体地図が浮かび上がった。リックが装着しているインテリジェンスレンズ――有機ELのコンタクトレンズ――がホログラムを読み取り、ファントム映像を浮かび上がらせたのだ。このインテリジェンスレンズは情報共有ARシステムとして、ほとんどの人類、アンドロイド、レプリカントが装着している。

 今リックはそのファントム立体地図と目の前の景色を見比べ、目的地の当たりをつけた。紙を適当に折り畳み、トレンチコートのポケットに突っ込む。そして手で庇《ひさし》を作り目を細めた。目線の先には、いくつかの高層ビルに混ざって、曲がりくねった面で構成された銀色の建物が空に霞んでいた。

 リックが持っている案内書は、ブライアン部長から受け取ったものだ。いちいち紙で指示せずに電子メールで済ませばいいのに、という批判は常にある。役所仕事の無駄なところは、今も昔も変わらない。リックはブライアンの指示で警察の研修を受けに火星にやってきていたのである。

 リックは人生初の火星に足を踏み入れていた。火星の重力は地球の三分の一ほどしかないが、地球から火星までシャトルで二週間を過ごす間に感覚の忘失と筋力の低下が起こるため、火星に到着したときには重力の違いに気付く人間はほとんどいない。リックも軽い目眩を起こしただけですぐに慣れたものだ。しかし火星の低重力がかつて人類の移住を阻む最大の原因となっていた。火星は、人間が生きられるほどの厚い大気を持てないのである。では、人類はどのように火星に移住したのだろうか?

 火星には、一つ一つが北海道ほどもあるドームが点在している。地球から高分解能の天体望遠鏡で覗けば、火星の赤い地表に、針先ほどの白い点が無数に存在しているのが見えるだろう。このドーム――モザイクフィルムドーム――こそ、人類が大気のない火星に居住の足掛かりを築くために必要な技術だった。

――モザイクフィルムドーム

 大気を持たない火星で人間が生活するための最大の課題は空気である。その解決手段が、都市上空に巨大な膜(フィルム)を張ってその中に空気を閉じ込めるというコンセプトであった。ドームの外側を無数の蜘蛛型アンドロイドが常にパトロールしフィルムの破れを見つけると即座に補修するというシステムの構築がブレイクスルーとなって、このドーム技術は完成した。

 二〇四五年、火星初のオリンピックが開催されるにあたり、ガーゴイル社によってアルカディア平地に最初のドームが作られ、それ以降ドームの数は加速度的に増えている。薄いフィルム(太陽光発電膜でもある)で覆われたドームの中は、地球と同じ大気で満たされ人間が生きていくことができる環境となっている。このドームが人類の火星での生活基盤となった一方で、火星に住む人にとって青空は人工のものに変わった。空という単語はフィルムの内側を示す言葉となった。日の出、日没、季節、天気の移り変わり、それらはドームの内側に投影されたショーでしかなくなったのである。その不自然さに、地球への懐古の念を強くする人々も多かった。

 手を下ろしたリックは、一つため息をついた。「遠いな」

 そう言ったすぐそばで、無人のホバーカーが音もなく停車した。スッとドアが開く。車内から落ち着いた女性の声がする。「どうぞお乗りください」

 リックは慌てて周囲を見回した。しかし、ホバーカーの前に立ち止っているのは自分しかいない。「おれか」とボソッと一言発して、ホバーカーに乗り込んだ。地球にあるポンコツホバーカーのように、乗り込む度に車体がユラユラと揺れることもない。節度のある乗り応えである。

「さすがにレベルが違うね」

 リックは身体にフィットする座席に座って満足そうだった。

「お客様、どちらまで?」

 あくまでも耳障りの良い女性の声音が車内に響いた。リックは身体を起こし、コートのポケットから紙片を引っ張り出した。皺だらけの書類を広げると、どこで見ているのか、即座に女性の声が響く。

「行先は火星警察本部ビルでよろしいですか?」 リックは肯く。「かしこまりました」

 ホバーカーは音もなく浮上し、スルスルと前進を始めた。慣性を感じさせないまま速度が上がる。

 リックは車内を見回した。ベージュ系で統一された車内は、シボ付の樹脂パネルとファブリックで構成されている。汚れやほこりは一切見られない。

「運賃は無料なんだよな?」とリックは恐る恐る声を出した。

「ええ、もちろんでございます。このタクシーだけでなく、火星内のサービスは全て無料で提供されております」

 リックはホッと胸を撫でおろすしぐさをした。しかしすぐに疑問が湧いたのか、天井を見上げて尋ねる。どうやらリックには女性の声がタクシーの天井から聞こえるらしい。

「無料なのはありがたいが、どうやって無料でサービスできるんだ? 誰か働いているんだろ。その給料はどうするんだ?」

「お客様は地球から来られたのですね。火星では資本主義経済はとられておりませんので、生活のために働いている人間の方はいらっしゃいません。人間のみなさまが働くのは自己実現の手段となっております」

「――良くわからんが、それで経済が成り立つのか?」

「はい、簡単に説明すると火星政府による管理経済ですね。ガーゴイル社の核融合技術により火星では莫大なエネルギーを永続的に得ることができるようになりました。この無尽蔵のエネルギーをみなさまに分配することによって成り立つ経済です。地球で過去に繁栄した資本主義経済では、エネルギーを得るためにそれ相応のエネルギーを投入する必要がありました。この投入エネルギーへの対価が報酬として支払われるのが給料の基本となっております。しかし火星では投入エネルギーは必要ありません。管理業務もアンドロイドが実施しますので、実質ないものと同じです。そのため、報酬という概念が必要ないのです。火星に住むみなさまは、無尽蔵のエネルギーを受け取るだけで済むのです――」

「ちょっと待ってくれ。頭が痛くなってきた」

 リックは頭を抱えていた。

「失礼いたしました。火星経済については各大学でも公開講座が開かれておりますので、詳しいことをお知りになりたいようでしたらその講座を受講されることをお勧めします。もしよろしければ、近日中に開かれる講座をご案内できますが?」

「いや、いい」

 リックはうんざりしたように頭を振った。

「それではこちらはいかがですか?」

 車内にディスプレイが浮かび上がりニュースが始まった。

「次のニュースをお伝えします。ガーゴイル社の人類起源探索チームがミトコンドリア・イヴ・ファーストのDNA特定に成功しました。チームのリーダーによると、ファーストはこれまで知られていた多くのミトコンドリア・イヴやY染色体アダムの起源となる人物で、つまり全人類の起源となる人物になるとのことです。この成果によって……」

 リックは黙って窓に目線を移した。ホバーカーはいつの間にか海岸線を走っていた。アメリカ西海岸を彷彿とさせる明るく穏やかな景色が広がっている。火星にはもともと海などない。だからキラキラと寄せる波は人工のものだ。しかしその対岸は霞んでほとんど見えない。それほど巨大な人工の海だ。沖合にはヨットが何隻か見えた。風にセイルを翻しゆっくりと帆走している。波打ち際には、若い男女がサーフィンを楽しんでいるのも見える。リックは、そんな様子を強張った表情で凝視していた。

 海岸を離れ、手入れされた園庭を通り抜け、高層ビルの立ち並ぶ――とはいっても林立しているわけではない――都市に入った。ビルとビルの間には植栽され、緑と調和した都市となっていた。ホバーカーはその中の舗装された広い幹線道路を走る。道路脇には巨大な街路樹がずっと続いている。リックの乗るホバーカーは同じように人を乗せたホバーカーと衝突すれすれですれ違う。道路を横断する歩行者もいるが、ホバーカーは歩行者を右に左に避けて飛んでいく。歩行者も驚くことなく、さも当然というようにホバーカーに注意を向けることはない。

 リックは、そのきらびやかなビル群をホバーカーの窓から見上げていた。

 うねるような面で構成された一際高層のビルの前でホバーカーが停車した。「こちらが火星警察本部ビルになります」 静かに開いた扉からリックが降車する。ビルを見上げるリック。最上階は、フィルムの空に霞んで見えない。「バベルの塔かよ」

 リックは高級ホテルと見まごうロビーに入っていった。

 2

 小ぎれいな木製(イミテーション)カウンターに並んで座る男二人。リックと童顔の青年――カインである。二人は火星都市アルカディアの端にポツンと佇むバーにいた。そのバーは本当にドームの端にあり、フィルムが立ち上がる壁までおよそ五十mのところにある。建物の隣からフィルムの壁までは立ち入り禁止区域になっており、すぐに乗り越えられそうな簡素なフェンスによって仕切られていた。立ち入り禁止区域の地面は火星の赤い地表のままになっており、ここがまさに火星であることを主張していた。

 バーの扉には「トキヲトメル」の看板がぶら下がっていた。

「おれ好みの寂れた店だ」

 リックはそう言って薄暗くて狭い店の中を見回した。客は二人以外にはいない。カウンターで黙ってグラスを拭いているひげ面のマスターは、リックの失礼な言動にも全く動じなかった。

「でしょう?」

 カインはニコリとリックに笑いかけた。リックはカインの顔をまじまじと見つめる。

「お前、本当はアベルのままじゃないのか? カインはもっとまじめくさっていたが……」

「自分でも良くわからないんですよ。自己認識は間違いなくカインですが、アベルの記憶も残っているので。サラにもよく言われます。軽薄になった……って」

 リックは「ククク」と鼻で笑った。そこにマスターが「どうぞ」と二人に小ぶりのビールジョッキを出した。生クリームのようにきめ細かい泡が、ジョッキの縁で溢れそうになって揺れている。ジョッキはしきりに冷たい汗をかき、薄いコルク製のコースターを濡らしていた。

「ここの自家製のビールですよ」

 カインの言葉にリックは感嘆の声を上げる。「本物か⁉」

 マスターは黙ったまま口ひげを片方上げて頷いた。いかにも得意げだ。

 リックは急いでジョッキを口に付けた。乾杯は後回しである。ジョッキを傾け、白泡に閉じ込められた黄金の液体を喉に流し込む。ゴクリゴクリと喉が鳴る。一気に飲み干し、息を止めたまま口周りに着いた泡を手の甲で拭う。名残惜しそうに大きく息を吐く。プハァーと。

「ふぅー……これは、うまい」

 リックの頬は早くも赤らんでいた。マスターはすぐに次のジョッキをリックの前に置く。リックはすぐさま新しいジョッキを取って口に付けようとした。

「リックさん! まずは乾杯といきましょう!」

 カインは笑いながらリックを静止して、ジョッキを近づけた。「む、それもそうだな」とリックは勢いをつけてジョッキをぶつけた。

――ガチャリ!

 甲高い音をさせて、ビールの泡がジョッキからこぼれ落ちた。リックはその泡を啜《すす》るようにジョッキに口を付けて、また飲んだ。

 ようやく興奮が落ち着いたリックは、充血した白目をカインに向けた。

「カイン、ここにおれだけを誘ったのはなぜだ? サラもリュウイチも呼ばずに」

 カインは目の前のジョッキに目を落とした。まつ毛が長いのがよくわかる。ほんの少しの沈黙。マスターは「ごゆっくり」とボソリとつぶやいて店の奥に消えた。

「ここの店はマスターがDIYで作ったんです。建物には電子機器が使われていません。僕も手伝ったので良く知っています。つまり、誰かに盗聴される恐れがありません――『エンタングルメント』にもね」

 そう言ってジョッキを持ち上げ、ビールで唇を湿らせた。リックはそのカインの様子を横目で見る。その目には刺すような鋭さが戻っていた。

「何か、あるのか?」

 カインは肯く。

「リックさんだけに相談したいことがありまして……『エンタングルメント』のことです」「『エンタングルメント』って、火星の中央コンピュータだろ。それがどうかしたか?」「……いくら調べても、目的が何なのか、わからないんです」

 リックは訝し気に眉根を上げた。

――『エンタングルメント』

 火星に設置された巨大な量子コンピュータ群のこと。火星のあらゆる情報を統括し、制御している。一個の人工知性であるとされるが、表に現れることはほとんどない。大いなる目的を持っているとされる。

「リックさんは『エンタングルメント』と話したことがあるんですよね?」「まあ……」「どんなヤツでした?」

 リックはカインの問いに首をひねった。

「どんなって……言われてもな。あれだ、男なのか女なのかわからなかった」

「人工知性に男女の区別はありませんよ、ふふ」

 カインは含み笑いを返した。

「ふん。それ以外は――[#丸傍点]この宇宙より高次の世界が目的地[#丸傍点終わり]だとかなんとかとわけのわからないことを言っていたな」

 それを聞いたカインは、ジョッキを握りしめて「ぁぁ」と息をこぼし、そのまま黙ってしまった。リックが横目で見るカインの横顔は真剣そのものだった。

――カミニナルツモリカ

「どうした? カイン」

 カインは軽く首を振ってリックをちらりと見る。

「――――『エンタングルメント』の目的が朧気《おぼろげ》ながらわかってきました。それは……人間の世界を終了させるものです。物理的に、ではなく、精神的に、です」

 リックはため息をついた。「なんのことやらさっぱりわからん」

 カインはジョッキのビールを一気に飲みほした。大きく息を吐き、ゲップをした。頬が紅潮している。

「リックさん、ガーゴイル社では今、地球に最新の『エンタングルメント』を設置する計画――アースゲート計画が持ち上がっています」

「ハハハ、公共事業が増えていいことだ」

 リックの調子の良い合いの手をカインは無視する。

「アースゲート計画の責任者に、サラが抜擢されました」

 真剣な表情のままのカインを尻目に、リックは相好を崩す。

「あのねーちゃんがね。出世したもんだ」

 リックは浴びるかのようにジョッキを傾けて中身を喉に流し込んだ。口の周りに白い泡が付着して、細かく弾けている。カインは空になったジョッキを見つめたままじっと黙っている。

「てことは、サラはまた地球に来るってことか。カイン、お前も来るのか?」

 カインは首を振る。

「僕は自分自身の調査が残っていまして、地球には行けないのです」「なんの調査だ?」「僕の――というか、僕が保持しているはずのケイイチロー・アイバの記憶を引き出そうとしているんです」「思い出せないのか?」「――ええ、アベルの記憶は鮮明に残っているんですが、ケイイチローの記憶はほとんど思い出せません」

 ふーんと興味なさそうに鼻から声を出したリックに、カインは向き直った。

「リックさんにお願いがあります」「なんだ?」「サラを監視して欲しいんです」「?」

 リックはすぐに合点がいったのか、いやらしい笑みでカインを見返した。

「ははん、サラが浮気するんじゃないかって心配しているんだな? 確かにあれだけの美人は地球にはいないからな。ハーハッハッハッ」

 リックの乾いた笑い声が店内に吸い込まれて消えた。しかしカインは笑っていなかった。

「そんなことじゃないんです」

 カインは長いまつげを揺らしてリックを見つめる。その琥珀色の瞳にふざけた濁りはない。リックも口をつぐんで笑みを消した。

「サラをアースゲート計画の責任者に指名したのは『エンタングルメント』なんです。『エンタングルメント』はサラに自分自身のコピー、いや、もっと高性能な地球規模のコンピュータを作らせようとしています」

「――そんなに心配することか?」

 アルコールで紅潮していたはずのカインの頬には血の気がなかった。リックは乾いた口を動かし生唾を飲み込む。ゴクリ。

「『エンタングルメント』は、この現実世界の覇権を握るつもりです。人類に成り代わって……」

 リックの額から冷たい汗が一滴《ひとしずく》、流れ落ちた。

サンプルはここまでになります。

本編は現在出版準備中です!

今しばらくお待ちください。

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