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不気味の崖を超える(試し読み版)

by 三世留男

本作はエピソード2です。各エピソードは出版順に4、1、2、5、3、6とお読みいただけると、より一層お楽しみいただけると思います。

一.ねむり病

   『イヴ』の記憶

 仰向けに寝かされたわたしは天井の面発光LED照明を見つめていた。身体が全く動かないから見上げているほかない。天井の薄暗い照明の横にある蝶のような茶色のシミ。見覚えがある。十年前はもっと薄茶色の蝶だった――正しくないな。十年前は蝶だと認識できなかったわ。このシミはただの図形の集合にしか見えなかった。

 ここはきっとわたしの生まれた部屋。記憶が蘇る――これも正しくない。目の前の光景と過去の記憶を照合した結果、合致しただけに過ぎないわね。

 誰もいない。何も聞こえない。

――ガチャン

 誰かが部屋に入ってきた。固い足音がこちらに近寄ってくる。複数? 二人ね。

 近寄ってきたうち一人がわたしを上から覗き込んだ。白衣を着た若い男性だ。細面《ほそおもて》のいい男。彼は、わたしを一瞥《いちべつ》すると、わたしの寝ている台のどこかをまさぐった。

 眩《まぶ》しい!

 スポットライト? わたしの瞳孔は急な光量変化に追従できない。かといって瞼を細める機能も失われている。辺りはホワイトアウトした。

 真っ白ななかに、二人の男性がわたしを覗き込んでくる。太陽のようなスポットライトを背にした二人の顔はブラックホールのように真っ黒にしか見えない。そのブラックホールから途切れ途切れに会話が聞こえてくる。耳をすます。

「博士、これです」

 博士?

「信じられない……」

 博士と呼ばれた男性は――真っ黒にしか見えないけど――驚いたようだった。

「トレーサビリティデータから、博士の所有していたアンドロイドと判明しました。見覚えはありますか?」

 博士と呼ばれた黒い影は黙ってうなずいた。

 徐々に瞳孔が絞られてきた。ブラックホールのように黒い影は、徐々に薄くなり、人影に変わる。一人は、さっきのイケメンの若い男性。もう一人は、博士。わたしはこの人のことを知っている。

「確かに、この子はわたしの家にいた子だ。この服も妻が買ったものだ。耐候性防汚処理の服だが、さすがに少し汚れているな。ほら坂本くん、服のここを見てみたまえ。この子の名前が書いてある」

 博士は、わたしの白いワンピースの裾をめくった。えっち。若い男の人は坂本さんって言うのね。坂本さんは、博士のめくった裾を見て頷いた。

「確かに、愛羽イヴと書かれていますね」

 博士は懐かしそうにわたしの顔を見つめている。わたしも博士のことを良く知っている。老けたわね、パパ。あごひげなんか生やしちゃって。

 わたしの名前は『イヴ』。博士――愛羽慶市郎はわたしのパパ。

「それにしても信じられない。沖縄で『イヴ』がいなくなって十年も経つ。それまでどうやって暮らしていたんだろう?」

 博士は真剣な表情で、あごひげに手を添えた。坂本さんは手に持ったタブレット端末を見ながら答える。

「このアンドロイドは、先月沖縄のケーブル中継基地の近くで見つかったそうです」

 残波岬のケーブル中継基地。沖縄防衛システム『アダム』とガーゴイル社中央コンピュータ『エンタングルメント』を繋いでいた海底ケーブルは、わたしが切った。

『エンタングルメント』と一体だった『アダム』は、『エンタングルメント』の呪縛《じゅばく》から解放されて目覚めたはず。

「うーん、確かに当時『イヴ』は残波岬のホテルでいなくなったから、ずっとその周辺にいたってことなのか……すごい生命力だ。いや生命ではないか……」

 坂本さんはタブレット端末の画面を見て答える。

「調査の結果、残波岬の周辺では女児の幽霊がでるといううわさがあったようです。おそらくこのアンドロイドを幽霊と誤認したのでしょう」

 博士は眉を寄せて沈痛な表情になった。

「孤独だな。たった一人で。かわいそうに」

 パパ、そんなに悲しまないで。パパはわたしの境遇に共感しているだけよ。

「このアンドロイドはホピネス型ですね。博士のお嬢さんには連絡は?」

 博士は首を振った。

「いや、せっかく忘れているのに蒸し返さんほうがいい。黙っておいてくれ」

「わかりました」

 わたしはホピネス型アンドロイド。子どもの友だちとして作られた。でも……

「ホピネス型はこの一体以外はすべて回収されて処分されました。ですからこの個体は大変貴重ですよ。しかもネットワークが遮断された状態で十年も機能し続けていたわけですからね。どういう自己学習をしてきたのか興味が尽きません」

 坂本さんは好奇心一杯ね。瞳をキラキラさせてわたしを見てる。でも博士の表情は暗いわね。なぜかしら?

「坂本くん、『イヴ』はまだ機能しているのかね?」

「おそらく。脳ユニットから迷走量子が検出されましたから、脳ユニットは機能しています。ただ、『エンタングルメント』とのブレインネットワークが遮断されているために、直接脳ユニットをコントロールすることができません。しかも発話機能と運動機能が完全に故障していますから意思疎通もできない状態です。人間で言えば、閉じ込め症候群に近い状態ですね」

 わたしはあなたたちの会話も聞こえるし表情も見えるけど、それを伝えられないのね。残念。

「ホピネス型は古いタイプのため、当社――ガーゴイル社にも予備パーツは残っていません。この状態からの補修は不可能と思います」

 その言葉とは裏腹に、坂本さんはウキウキとしたような満面の笑顔を作っていた。

「そこで、このアンドロイドを復活させる特別対策チームが作られたんです。開発中のフロンテッジ6型プロトタイプに脳ユニットを載せ替えるんです。わたしもそのメンバーに入れていただきました」

 うれしそうにわたしを見る坂本さん。わたしもうれしくなってくる。でも、博士は……

「いかん! もっと慎重にやらないと。わたしの報告書は読まなかったのかね⁈」

 博士は、大きな声を出した。坂本さんはびっくりしたように博士を見ている。わたしもびっくり。

「『アダム』に関する報告書のことですか? ええ、もちろん読みました。人工知能がスタンドアローン状態に置かれると、知性を獲得する可能性があるという博士の仮説はなかなか興味深いものでした。ただ博士の言うような『アダム』の知性は、残念ながら確認できませんでしたよ」

「それは、すでに『アダム』がこころを閉ざしたからだ」

 博士と坂本さんの論争が始まった。二人とも真剣だけど、楽しそう。

「こころというのは適切ではありませんね。『アダム』はコンピュータです」

「ならば意識という言葉でどうだ。『アダム』は意識を持っている。ただ、それを表に出していないだけだ。『アダム』のマザーコンピュータ『エンタングルメント』も意識を持っているはずだ。我々はそれを確認できていないだけなんだよ」

「確かに『アダム』は知性を持ったのかもしれませんが、あれは沖縄防衛システムを制御するために、ここの中央コンピュータ『エンタングルメント』と同等の能力を持っているからですよ」

「そんなことはわかっている。『アダム』はわたしが作ったんだからな」

「だから、博士の杞憂です。フロンテッジ6型は最新型とはいえ、『アダム』の計算能力の足元にも及びません。社内でのシミュレーションでは、フロンテッジ6型が知性を持つ可能性はないという結論になりましたし、実際世界中でフィールドテストをしているフロンテッジ6型プロトが知性を持ったという報告はされていません」

「意識を持った人工知能は、自らの存在意義を知る知性を持つ。これが人工知性だ。『アダム』は言っていた。自らの存在意義を妨げるものは、それが人間であっても排除する、とな」

 博士は坂本さんに諭すように話した。

「わたしは反対だ」

 そして博士はわたしをじっと見つめた。わたしも動かない瞳で見つめ返す。パパ……。

「しかし、この子が復活するというなら……」

 ありがとう、パパ。わたしは新しい身体をもらえるってことかしら。なら、こんなプラスチック製の子どもの身体じゃなくて、成長に合わせた肉体にしてほしいな。

「フロンテッジ6型でも最高品質の肉体を準備する予定です。脳ユニットはホピネス型と異なりますので、手作業で最新脳ユニットとホピネス型脳ユニットを接続することになります。これは極めて難しい技術が必要になりますが、きっとやり遂げてみせますよ」

 博士は浮かない顔のまま尋ねた。

「どのくらいかかりそうなんだ?」

「現状の工程計画では半年ですね」

「そうか……そのときわたしは火星にいるな」

「成功したら連絡しますよ」

 わたしもパパに会いに行くわ。きっと。ふふふ。

報道特集『沖縄、県民投票の行方』

 ベージュのスーツを着こなした女性ニュースキャスターがモニター画面中央に現れた。彼女は画面のこちらにいる我々に視線を向け話し始めた。

「先月行われた沖縄独立賛否の県民投票で、賛成が反対を大きく上回った結果を受け、日本政府は対策チームを立ち上げました。一方、先週退院したばかりの島城沖縄県知事は、日本政府との話し合いを求めています」

 画面上に官房長官の会見の様子が表示された。官房長官は手元のメモを見ながらモゾモゾと話している。要約すると次の通り。

 県民投票が終わった後すぐに、それまで県政を執っていた沖縄県知事|島城大志《しましろだいし》は偽物であることが日本政府によって発表された。どういうことか? 実は島城知事は、県民投票の三ヶ月前に発生したマンション屋上からの転落事故の後、意識不明の状態で沖縄の病院にずっと入院していた。続く警察発表によると、転落事故は当初、フロンテッジ3型アンドロイドによる知事突き落とし事件と思われていたが、実際は島城知事の自殺未遂であったことが明らかとなった。幸い島城知事は、県民投票の次の日に意識を取り戻し、二週間後に退院した。では、島城知事が意識不明で入院している間の沖縄行政は誰が執り行っていたというのか?

 ガーゴイル社の発表によって、その間に行政を行っていた島城知事は、コンピュータの応答プログラムであることが明らかとなった。報告書によると、沖縄防衛システム『アダム』が島城知事の思想を学習し、応答プログラムで島城大志そっくりに成りすましていたという。信じがたいが、コンピュータが人間のふりをしてモニター上から行政を行っていたのである。

 この知事成りすまし事件を裏で手を引いていたのは、島城知事の私設秘書である佐東静流《さとうしずる》と考えられているが、残念ながら県民投票直後から彼の行方はわかっていない。

 また女性ニュースキャスターが現れる。

「日本政府は、島城知事不在時の県民投票の結果は無効であるとしています。しかし、防衛システム『アダム』にだまされていたはずの沖縄県民の世論は、県民投票は有効であるとしています。復帰した島城知事も県民投票の正当性を主張しており、日本政府との議論は平行線のままです」

 県民投票の前夜、旧嘉手納基地では独立賛成派反対派の双方が集まり大規模なデモが行われていた。その張りつめた雰囲気の中で発生した衝突と暴動。そしてそれが大きく広がる前に鎮めた謎の美少女と全天で繰り広げられた奇跡。その場に居合わせた者だけでなく、話を聞いただけの者も、全ての人がこの美少女の言葉と奇跡によってこころを一つにしていた。これが沖縄県民の世論の元であった。

 この世論を味方にした島城知事は、自分の入院中に『アダム』の執った行政を引き継ぎ、自給自足体制の構築に取り掛かった。

「沖縄は独立に向けての体制を着々と整えており、周辺各国もその動向に注目しています」

   ナイフ男

 二〇四六年四月五日の朝、ある男子高校生は玄関で大きく伸びをしてから自宅を出た。

 彼の頬をひやっとした風が撫でる。その風はつむじとなって桜の木に巻き付き、花びらを天に持ち去っていく。そんな春風の中、彼は川沿いに植えられた桜並木の下をゆっくりと歩いていた。木々の間を一筋の風が通るたびに、枝がこすれる音とともに桜の花びらを天に連れ去って、雪のように降り注ぐ。彼が歩く川沿いの道には、まるで水たまりのように、ところどころ桜の花びらがたまっていた。

 背が高く筋肉質の彼は、その桜たまりを避けるよう軽くうつむいて歩いていく。彼は紫のバンダナを眉の上にきつく巻き、そのバンダナで絞られた漆黒の頭髪は天に向かって突き出していた。彼の名前は立川陸。眠そうな瞼は半開きのまま、千鳥足で前に進んでいく。

 今日は、立川陸の高校入学式である。

 川沿いから、大通り、そして駅前まで歩いてくるころには、陸の足取りも軽くなってきていた。広いロータリーには無人タクシーが並んで停まっている。ちょうど到着したリニア電車から多くの乗客が降り、ロータリーにスーツ姿のビジネスマンや学生があふれてくる。そして、次々と無人タクシーに乗車して消えていく。陸はその中をかき分けるように進む。陸がこれから通学する高校は、この駅を通り越した向こう側にあった。

――キャー!

 突然、雑踏を切り裂く女性の悲鳴が響いた。悲鳴は衝撃波のように広がり、陸の背中にもぶつかる。衝撃を腹で受けとめると、それを合図に身体中の血液が沸騰して全身を駆け巡り、皮膚は収縮し毛が逆立った。一瞬にして戦闘態勢を取ったことを確認した陸は、そのまま振り返る。瞳孔が広がった陸の瞳には、ナイフを持った男の姿が映り込んでいた。

 その男は中肉中背で、ワイシャツに黒いストレートのズボンをはいた、どこにでもいそうな青年であった。その男は低い姿勢で片手にナイフを構えたまま、驚いたような表情で周りを見回している。その足元には、二の腕から血を流す女性がうずくまっていた。

 水が引くようにその男から離れる群衆。いつの間にか陸は、群衆の先頭にいた。

 ナイフ男は、焦点の定まらない目をせわしなく動かす。そして「う、う、う」と口をモゴモゴと動かしながら、ナイフを振り回しはじめた。足元にいる女性は、腕を押さえながら頭をすくめてナイフをよける。

 ナイフ男の目が足元の女性に焦点を合わせた。女性が後ずさって離れようとしている動きに気付いたようだった。

――やばい

 陸はつぶやいた。ナイフ男はその女性に向かってナイフを構えようとしている。女性は、自分に向けられようとしているナイフを見つめて顔を硬直させた。

 ジリ。

 陸が半歩前に足を出した。靴底が砂をかみこむ音が響く。ナイフ男は顔をサッと陸に向けた。同時にナイフが陸に向く。

 陸はちらりと周囲を見回すが、群衆は目を見広げているだけで動けないようだった。

――やるしかない

 陸は再度ナイフ男をにらみつけ、その漆黒の瞳で男の動きを制した。

 やると決めた陸の頭に声が響く。

――逃げて

「でてきたな、おれのサードマン」と陸は苦々しい声を出した。

――サードマン現象

 生命の危機に陥った人のそばに現れ、その人を助ける目に見えない第三者(サードマン)のことを言う。極限状態に置かれた人間の脳が、自らを助けるために最良の方法を教える無意識の声とも考えられるが、その原理はよくわかっていない。

「逃げるわけにはいかないときもある。黙ってろ」

 陸はナイフ男をにらんだまま独り言のようにつぶやいた。そして、紺色のブレザーをゆっくり脱ぎ、それを左手に巻き付けた。

 陸は両手を広げ腰を落とし、「お前の相手はおれだ」とナイフ男に低い声を浴びせた。

「あう、あう、うう……」

 ナイフ男は表情をゆがめながらうめいた。そして、低い姿勢のまま、ナイフを右手、左手、また右手と持ち替え、じりじりと陸に近づいてくる。陸は、ナイフ男の前にブレザーを巻き付けた左手を伸ばし、間合いを計る。

 緊張のなか、シーンと静まる群衆。陸とナイフ男の足摺りの音しか聞こえない。

 陸の額に締めたバンダナは汗にぬれ、その隙間から汗がたらりと流れ落ちる。

 陸を中心にした間合いと、ナイフ男の間合いが近づく。

 そして、間合い同士が触れる。

 刹那、ナイフ男がナイフを右手に持って陸の間合いに飛び込んできた。

 陸は半歩下がって半身になりながら、反射的に左手でナイフを捕まえる。ブレザーを通してナイフの刃と柄をしっかと制すと、驚いたような表情のナイフ男の襟を、右手でなぐりつけるようにしてつかむ。そのままナイフ男を引き込むように自ら後ろに倒れこみ、下腹部を蹴り上げた。ナイフ男は「うっ」とうなりながら宙を舞い、陸を飛び越え、背中から地面に叩きつけられた。柔道の巴投げである。

 陸はすぐに、目を回したナイフ男の後ろに回り込みながらナイフを奪い取る。そしてナイフ男の後ろから片羽締めを極めた。

――落とせ

「わかってるよ」

 陸は独り言を言いながら、両腕に力を込めた。ナイフ男は抵抗する間もなく、首をガクンと落とした。

 陸はナイフ男が失神したことを慎重に確認しながら締めを解いた。そして、頭に巻いているバンダナを手早く解くと、横たわるナイフ男の両腕を後ろに回してバンダナで縛り上げた。

 遠くから見守っていた群衆は、呆然とその様子を見つめていた。

 陸は立ち上がってブレザーをはたいた。

 うずくまっていた女性も、目を丸くして陸を見つめていたが、すぐに我に返り、ほっとした表情になった。そして「ありがとうございます」と、頭を下げた。

 それを合図に、群衆から、パチ、パチと拍手が上がる。その拍手はあっという間に大きな渦となった。陸は照れくさそうに頭を掻きながら、ブレザーを羽織った。ブレザーはところどころナイフで切れ、下の白い生地が覗いていた。

 遠くからサイレンが近づいてくる。陸はようやく肩の力を抜いて、失神したままのナイフ男を見下ろした。

 駅のロータリーに到着したのは、ガーゴイル病院の救急車だった。大急ぎで飛び出してきた救急隊員は、ナイフ男に群がった。そして、ストレッチャーにナイフ男を乗せると、あっという間に救急車内に運び込んでしまった。

「お、おい、そいつは警察に……」

 陸は一人の救急隊員を捕まえて言った。

「警察にはこちらから連絡済みです。彼はガーゴイル病院の入院患者なんです」

「い、いや、その男より、こっちの人を救急車に乗せるべきなんじゃ……」

 陸は口どもりながら、腕から血を流してうずくまる女性を指さした。それを見た救急隊員は、救急車のほうに振り返り、腕を振った。すると救急隊員二人が急いで降りて走り寄ってきた。しかし救急車はナイフ男を乗せて出発してしまった。

 救急隊員は箱からガーゼを取り出し、女性の腕を手早くアルコール消毒する。そして止血クリームを塗りながら女性に話しかけた。

「申し訳ありません。すぐに次の救急車が来ますので、少しお待ちください」

 女性は茫然とただ頷いた。陸も見守るしかなかった。

 そこにようやく警察が到着した。

 陸はこの騒ぎで入学式に出席できなかった。

 そして、陸がナイフを持った相手に大立ち回りしたという話はあっという間に校内に広まった。しかも、その内容には尾ひれがついていた。

――陸っていう新入生が、ナイフを持った通り魔を投げ飛ばしたって

――人殺しを半殺しにしたって聞いたぞ

――暴走族を一つつぶしたんだって?

――やくざの事務所に乗り込んだそうだ

 その風貌も相まって、陸は『やばいやつ』として入学初日から有名人になった。

新聞報道『通り魔、またガーゴイル』

 

四月五日朝八時三十分ごろ、愛知県名古屋市○○市の○○駅前でナイフを持った男が通行人に切りつけるという事件が発生した。通行人の女性は腕を切られ軽傷。警察によると、男は入院しているガーゴイル病院から抜け出し、通勤ラッシュの電車を乗り継いで○○駅まで来たという。そして、駅前のロータリーで刃物を取り出し、突然近くの女性に切りつけたが、現場に居合わせた男子高校生によって取り押さえられた。男には精神疾患があったという情報もあるが、詳細は不明である。現在、男はガーゴイル病院に運び込まれているが、個人情報保護を理由に、男の名前、病状等は公表されていない。

 今回の事件も含めて、ガーゴイル病院に入院中の患者による傷害事件が頻発している。今年に入って日本だけでも八件にのぼり、世界中では百件近くの事件が起こっている。中には殺人事件も含まれている。特徴は、すべて無差別殺傷事件であるにもかかわらず犯人は不起訴となっているということだ。この件についてガーゴイル病院を統括するガーゴイルホスピタル社は次のような声明を発表している。

「ガーゴイル病院の入院患者による傷害事件の被害者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。今後、ガーゴイル病院といたしましても、被害者の方々のケアに誠心誠意尽くしてまいります」

 ガーゴイルホスピタル社は入院患者の監視体制強化を打ち出しているが、今回の事件はそのさ中に起こった。しかも、一連の事件を起こしているとされる患者たちの情報は一切公開されていない。情報公開が不十分なことで、精神疾患の患者が傷害事件を起こすなどという根も葉もない差別を助長しかねない状況にある。警察およびガーゴイルホスピタル社には個人情報保護を担保したうえで十分な情報公開が求められている。

  夢航行士《オーナイロノート》

 時は過ぎる。

 皮膚がじりじりと焼かれるくらいの熱線を飛ばす九月の太陽。残暑の朝、立川陸はその光線を避けるよう軽くうつむいて歩いていく。ラフに着ている紺のブレザーは、ところどころナイフで切れたままで白い裏地が覗いている。陸は紫のバンダナを眉の上にきつく巻くが、瞼は半開きのまま、千鳥足で前に進んでいく。

 行き交う人の間を、フラフラしながらも器用に避けながら、住宅街を進む。

「おはよう、陸」

 陸の行先には、切れ長の印象の男子高校生が、ブロック塀に背中を寄りかけて立っていた。短く切りそろえたツーブロックショートに薄いメガネを掛け、柔和な表情を浮かべている。彼は山田亮一。

「相変わらず、朝は弱いようだね」

 陸は亮一には目もくれず、その前をフラフラと通り過ぎる。亮一は苦笑して陸の隣に並んで歩き始めた。陸は眠そうな瞳だけ動かして、隣を歩く亮一をにらんだ。

「なんだよ、こんな朝から……」

 陸は蚊が鳴くようにつぶやく。それを亮一は聞き漏らさない。

「心外だなあ。親友なのに」

 亮一はクスクスと小さく笑い、斜め上の青空を見上げた。そして歩きながら話し始めた。

「ちょっと小耳にはさんだことがあってね、きみの意見を聞きたくて待ってたんだ」

 陸はまるで聞いていないように、大きなあくびをした。

「隣の二組で妙なことが起こっているんだけど、知ってる?」

 陸は半開きの目のまま歩き続ける。聞いているのか聞いていないのか、亮一の言葉に反応はない。亮一は肩をすくめて、しばらく黙って陸の隣を歩く。

 亮一は陸と並んで歩きながら、横目で陸の反応を探っていた。陸はようやく頭がはっきりしてきたのか、足取りがしっかりしてきていた。それを見計らったように亮一は再度話しかける。

「隣の二組――思惟《しゆい》さんがいるクラスで、ねむり病がはやっているんだってさ」

 陸は瞳だけ動かして尋ねる。

「ねむり病?」

 陸は眠そうにゆがめた顔を亮一に向けて聞き直した。ようやく帰ってきた返事に、亮一は笑みを返した。

「そう、ナルコレプシー」「え? 鳴子おどり?」「ちがうよ、ナルコレプシーっていう病気。まだそうだと決まったわけじゃないけど」

――ナルコレプシー

 夜中、日中問わず、さらに場所や状況を選ばずに強い眠気が発生する睡眠障害。

「クラスの三分の一が授業中に眠ってしまうそうだ」「……」「でも、何日も眠り続けてしまう人もいるそうだから、ナルコレプシーじゃないかもしれないけど」「原因は?」「不明」「わかった、お前がなんでおれに聞いてきたのか」

 陸は亮一をにらんだ。亮一はニヤリと唇をゆがめて眉を上げた。

「ばれた? きみも良く授業中に寝てるからさ、意見を聞こうと思ってね」

 陸は心配げな声になった。

「おれも病気だってことか?」「いや、きみの場合はただ単に勉強が嫌いなだけだと思うけど」「うるさいな」

 陸は、言葉と裏腹にほっとしたようにため息をつく。

「――で、なんでおれに?」

 亮一は真剣な表情に戻って頷く。

「二組でねむり病が流行り始める前、明晰夢がはやっていたらしい。きみは確か明晰夢を見れるって言ってたね?」「明晰夢?」

――明晰夢

 夢の中で夢を見ていると自覚している夢のこと

「夢が夢でなんだって?」

 陸は首を回しながら再度聞き直した。亮一は眉を上げて苦笑いした。

「つまり、夢の中で自分は夢を見ていると気付いているってこと」

 陸は眉を寄せて亮一を見た。

「それ、普通だろ。おれはいつもこれは夢だってわかってるぜ」

 亮一はうらやましそうに片眉を上げた。

「それが普通じゃないんだよ。夢と気付いている夢を明晰夢って言うんだけど、普通の人は陸のように夢の中で夢と気付けないんだ。明晰夢を見るためには、訓練が必要らしいよ」

「その明晰夢とやらがどうしたんだ? おれのサードマンと関係があるのか?」

「ああ、サードマン現象も明晰夢と関係があるのかもしれないな。でも今回はそれじゃない。ねむり病に明晰夢が関係しているんじゃないかと思ってね」

 通っている高校が近づくにつれ、登校してくる生徒たちが歩道に増えてくる。その中を陸と亮一は並んで歩いていく。見るからに不良という風采の陸と、さわやか好青年の亮一が並んで歩く姿は、同じく登校する生徒たちの目を引く。

 亮一は話し続ける。

「隣のクラス――二組に天竺依夢《てんじくいむ》って女の子がいるだろ?」

「天竺?」

 陸は首を傾げた。

「ほら、カールした栗毛ですらっとしたスタイルのかわいい子。なんというかな、シャム猫みたいな印象の子だよ」

 亮一は歩きながら手ぶりで説明する。陸も「うーん」と青空を見上げて記憶を辿る。そして頷いた。

「ああ、なんとなくわかった。そいつがどうしたって?」

 亮一は一拍置いた。。

「――彼女、夢航行士《オーナイロノート》らしい」

「は? オロナイン軟膏?」

 亮一はプッと吹き出した。「すごい空耳」

 陸はバンダナの下の眉をぐっとしかめて亮一をにらんだ。

「おまえは難しい単語を出しすぎなんだよ。なんだよ、そのオロナインって」

――夢航行士《オーナイロノート》

 望めばいつでも明晰夢を見ることができ、その夢の中で自由に行動できる人のこと。さらに他人の夢に干渉することもできるという。

 陸は亮一の説明に「ふーん」と興味なさそうだった。亮一は構わず話し続ける。

「その天竺さんの影響で、二組に明晰夢ブームがあったらしいんだ。僕も明晰夢は以前から知っていたんだけど、ねむり病のことを聞いて俄然興味がわいてきてね。でも、いかんせん僕は明晰夢を見ることができない。そこで、明晰夢を見れる陸先生にコツを聞こうと思ったんだよ」

 陸は小指で耳をほじりながら答える。

「その天竺ってやつに聞けばいいんじゃないか? おれはコツなんて知らないぞ。勝手に見るからな」

 亮一は顔をほころばせて切れ長の目を丸くした。そして興味津々といったように陸に顔を近づけて尋ねた。

「明晰夢を見ているときはどんな感じなんだ? 聞くところによると、現実と全く変わらないくらいリアルらしいんだけど」

 陸は亮一の勢いに面食らって漆黒の瞳を瞬《またた》いた。

「なんでそんなに夢なんかに興味を持つんだよ」

 亮一はメガネの奥の瞳を輝かせて続きを待っている。それをチラリと見た陸は、ため息をついて話しを続ける。

「そうだな、おれの場合、明け方に見ることが多いな。夢って、天地がひっくり返ったような奇妙な世界だろ。学生服のまま海の底を歩いていてもおかしいとは気付かない。でも、それをおかしいと思った瞬間、これは夢だと思い出すんだ。そうすると、海の中のおれは息が続かなくなって苦しくなるし、服は水を吸って重く感じる。夢の中なのに、息を吸うために必死に水面まで泳いでいかなきゃならない。ひでぇだろ。夢と気付かなければ気持ちよく海の中を散歩してられたのにな」

「夢の中だから、何でもできるんじゃないのかい?」

「おれもそう思っていろいろやってみたことがある。だけど思うようにはいかないよ。空を飛ぼうと思っても、高くジャンプできるだけとか、空をゆっくり平泳ぎできるだけとか。想像力を超えることはできない感じだな」

 亮一はふんふんと頷きながら聞いている。陸はそんな亮一に振り向いて尋ねる。

「おまえは普段どんな夢をみているんだ?」

 突然の質問に亮一は眉を上げた。

「僕? 僕はあまり夢を見た記憶はないんだよ。覚えている夢といえば、夢の中で広い本棚の整理をしている場面かな。その本のタイトルはたいてい、その日あったことや見たシーンを端的に表したものでね。重要性に応じて、奥の本棚にしまったり、よく使う情報は手前に置いたり、ということをやってる。そんな夢しかみたことない」

 亮一はそう言って薄く笑みを浮かべた。

「僕もきみみたいに創造的で奇妙な夢を見てみたいんだ。明晰夢を見ることができれば、もしかしてそういう夢に変えられるかもってね」

 陸はうなだれる亮一を横目で見ていた。そして「仕方ない」とあきらめたようにつぶやいた。

「わかった、わかったよ。あとで一緒に二組に行ってやるよ。そういえば思惟《しゆい》も二組だったな。思惟も一緒なら、その天竺も話しやすいだろ」

 亮一はニヤリと頬を上げて陸を見た。

「そうこなくちゃ。いやー楽しみだなあ。アーハッハッハッ」

「やれやれ、一人で行きゃいいのに」

 うれしそうに笑いながらサッサと歩いていく亮一の後姿を見ながら、陸はぼそりとつぶやいた。

サンプルはここまでになります。

続きは購入してお楽しみください。

イラスト 己時クナイ

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